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2007年9月

秋は、やっぱりキノコ狩り

 
 今回の帰省の往路に、山深いルートを選んだ。
 今年の記録的な暑さに、うんざりしていたので、秋の萌しに出会いたいと、思ったからである。

 助手席から、ふと、母が言う。
「キノコが、いっぱい採れそうだね」
「なかなか良い雑木林だよ」
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 キノコにまつわる昔の思い出を、ぽつりぽつりと、話し始めた。
 幼き頃の話しと、嫁いでからの話しが、混じっているようだ。
 適当に、相づちを打つ。

 めったに車と、すれ違うこともない道でも、よく舗装されている。
 そのような山道でも、秋が本格化すれば、ちょっとした空地のあちこちに、数多くの車が駐車するようになる。
 きのこ狩りのためだ。
 まだ、駐車している車は、いない。
 木々の葉っぱにも、色づきの気配は見えない。
 まだ、秋は来ていないようだ。
 
 子どもの頃、秋になれば両親の知人に、きのこ狩りに連れて行ってもらっていた。
 レジャーというよりは、食糧調達という意味合いが、強かったように思う。
 きのこ狩りは、春の山菜取りとは違って、各々の家ごとに、採る場所があった。
 当然、その収穫する場所は、秘密である。
 噂では、大事な場所は兄弟でも教えないと、聞いたことがあったように記憶しているが、定かではない。 

 子どもであったため安心したのか、その秘密の中でも極秘の場所に、連れて行ってもらったことがある。
 小雪が舞ってもおかしくない秋も終りの頃、小道から外れ、しばらく道なき道を、歩くというよりは這い上がっていくと、暗く小高い山のようなものが見えた。
 近ずいてみると、その小山は、すべて"なめこ"というキノコが群生したものであった。
 一か所で、背負いカゴが、いっぱいになった。
 "きのこ狩り"ならぬ、"きのこ刈り"なのである。
 キノコは、かさの下にできる胞子で、次の世代につなげていると、納得できる光景でもあった。
 その時に、"最も大きいキノコの株は残すこと"、"山への感謝の気持ちを忘れぬこと"なども、同時に教わった。
 
 今は、あちこちに、
<私有地に付き、山菜、きのこ取り禁止>
<町有地に付き、入山禁止>

と書かれた看板が立っている。
 車社会の現代、あらゆる所に入り込み、山を荒らし、恵みを根こそぎ持っていってしまうという。
 やむを得ないことなのであろうが、さみしいものである。
 
 

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新しい言語を、お勉強中?

 今日も、デイサービスから帰ってくると、元気そのもの。
 クツを脱ぎすて、自室に入り、寝ようとする。
 しぶしぶ出てくる。
 そして、
「今日のお昼は、天丼だった」
「おやつに、蒸しパンが出た。おいしかった」
「歌を歌ったり、踊りを踊ったりした。楽しかった」
   ・・・・・・・・・・・・・・・ 

 いつもの、パターンである。
 
 耳なれない言葉が、聞こえた。
 標準語のようだ。

 介護センターならぬ"老人会"に行くようになってから、時たま、標準語を話すようになった。
 小学校の教師をしていたためか、イントネーションを除けば、もともと標準語に近い会話は、できていた。
 しかし、家の中、それも、2人だけの時に、標準語を使ったことは、今までの記憶には、ない。
 なんとなく、おかしい。

 田舎では、なまりの他に、独特の方言がある。
 加えて、地域によって、さらに違った方言もある。
 昔ながらの長老の会話は、いま聞いても、理解ができない言葉の方が、多い。
 昔は、村ごとに、少しずつ違った言葉があった。
 最近は、地域との交流スピードが早くなったためなのか、テレビなどの影響なのか、田舎でも、方言としての標準語化が、加速されている。
 昔ながらの言葉が、消えているともいえる。
 世界中でも、少数民族の言語が、どんどん消えているそうだ。
 時代の流れで、やむを得ないのだろうが、それでも、チョットさみしい気もする。

 若者が、若者同士で通じる"新しい言葉"を使っていると、よく報じられている。
 マスコミの誇大報道もあるようだが、いつの時代でも、そうであったような気がする。
 昔ながらの方言がなくなる一方で、若者が、新しく創作する。
 おもしろいものである。

 介護センターでは、当然、標準語に加えて、下町のなまりを残した方言のはずである。
 きっと、近いうちに、新しい"言語"を、覚えてしまうだろう。
 まだまだ、""の一部は、いたって健在である。
 
 

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鏡に映った世界に生きる

 夕食をとっている時、ふと、おもしろいことに気づいた。
 ご飯に箸をつけると、ご飯を食べる。
 おかずに手をだすと、おかずに手をだす。
 味噌汁を飲むと、同じように、味噌汁を飲む。
 いつから、だろうか。
 
 思い起こせば、おかずの順番を、同じように食べているのが気になった時があった。
 その時には、親子なのだから好みも同じなのだ、という程度しか考えず、その後、すっかり忘れていた。
 あの時から、そうだったのだ。

 意識するようになってから、気になって仕方がない。
 意識して、おかずの食べる順番を変えて、いろいろ試してみた。
 ほぼ、同じに、食べる。
 聞いてみた。
「そんなことはない」
「まねなんか、していないよ」

と、否定する。
 多少、違う時もあるが、全体的な動作には、変わりはない。
 まるで、鏡に映ったようである。

 良く考えると、森羅万象、すべてを、鏡に映っているように、対峙して像としてとらえ、それを、頭の中で補正して感じている。
 目に映っている景色も、実際は天地が逆になっていて、脳で補正して見ていると聞いている。

 最近は、食べ物をかむ動作や、飲み込むことが、正常ではない。
 食べ方を忘れたため、必死に覚えようとしているのか知れない。
 幼児が、まわりの人のマネをして、学ぼうとするように。

 シャツも、ズボンも、パジャマも、下着も、見事に、逆さまに着ている時がある。
 映っている世界に、忠実に、生きているのかも。
 なんとなく、ぼんやりではあるが、納得である。

 心の中で、笑いが吹き出す。
 お互い、右利き。
 そこだけは、鏡でないのに気づき、こみ上げた笑いが、なかなか消えない。

 
 
 

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同じおかずでも、おいしい?

 料理は、毎日やっていても、まったく上達しない。
 別に、卑下している訳ではない。
 何ごとも、上手になろうと思ってやらないと、上達しないようだ。

 1品を作ると2~3回分、おかずの種類によっては4~5回分の量が出来上がる。
 それらを、1回分ごとに小分けして、保存しておく。
 数日の間は、十分に持つものが多い。

 重要なポイントは、出来上がった熱いうちに、すぐに、小分けして、ラップをかける点である。
 粗熱がなくなった頃に、冷蔵庫に入れる。
 ただ、それだけである。
 冷めてから小分けしたものは、すぐにダメになる。

 大きな冷蔵庫も買った。
 ホウレン草や小松菜などのお浸しなどは、ゆでてから小皿に分けて、ラップをかけ、冷凍庫に入れる。
 こちらは、相当な期間、持つ。
 通常のおかずも、量を作り過ぎた時などは、冷凍しておく。
 煮物など、ほとんどのおかずは、これでOKである。
 
 前に、カレーライスを冷凍保存したことがあった。
 後日、さあ食べようと、再加熱した。
 味には無頓着であるが、さすがに、これは食べれなかった。
 じゃがいもが、ダメなのである。
 ポテトサラダなど、すりつぶしたものは、なぜか、大丈夫。
 理由は、知らない。

 食事ごとに、かならず、1品を作っている。
 よって、味はともかく、和洋折衷のおかずが、点数だけは、結構、食卓に並ぶことになる。
 旬を知らせる食材、色とりどりの品々が揃う。

 ただ、"骨のある"魚だけは、ここ数年、食卓から消えている。
 骨のないものとして、刺身の他にも、鮭、マグロ、ハマチなどの切り身も、取り分ければ大丈夫だから、魚そのものが、消えたわけではない。
 "骨の心配のない"アジ、イワシ、アナゴなどの天ぷらや、フライなどは、スーパーに常備?されている。
 魚の缶詰も、主役の1つである。
 余談ではあるが、最近は、スーパーでも、サンマの刺身を作ってくれる。
 冷凍技術の進歩には、いたく感激している。

 食事中に、ふと気が付く。
 毎回毎回の食事ごとに、順送りで、同じ物が出ているのだ。
 母は、気が付いていない。
 普通の人なら、すぐに気付き飽きるだろうに、おいしい美味しいと、食べている。
 認知症というのも、ありがたいものだ。

 東北人特有の濃い味が好みのはずだが、味を忘れたのに付け込んで、塩分は控えめにしている。
 ほとんど運動もしないので、超、薄々味にしている。
 結果、長年の高血圧症が、ほぼ治っていると、医者が不思議がっている。
 "脳の健康"の方も全快、と期待したいところだが、今のところ、こちらだけは、手段が見つかっていない。
 
 

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電話番号が、変わった

 久しぶりに、とある知人に電話をかけた。
 出ない。
 奥さんが働きに出ているとは、聞いていない。
 悠々自適の生活をしているはずである。
 この1週間、毎日のようにかけ続けても、出てこない。
 悪いとは思ったが、夜遅くに、かけてみた。
 呼び出し音は、鳴っている。
 もしやと思い、翌日、訪問してみると、いたって元気にしている。
 夫婦喧嘩をしたあげく、電話のコードを切ってしまったようだ。
 この情報化の世の中で、電話がなくとも、生活できるようである。
 いまや携帯電話の時代、街角から電話ボックスが消えつつある。
 古くからの固定電話は、役割を終えたのかも知れない。

 母も、最近は、電話を使ったことがない。
 正確には、つながったことがない
 一人でいる時に、番号を大きく書き取り、チャレンジした痕跡は残っているものの、かかった様子はない。 
 田舎へは、当然、市外局番からで、電話番号が長い。
 途中で、番号を忘れるのだろう。
 当然、つながらない。
 一時、番号を記憶できる機器に変更したこともあるが、すぐさま,拒否され、元のものに戻した。

 長女であるから、姉妹の中で、一番の年長者である。
 妹の一人に、
「電話番号が変わったら、連絡しなきゃ、ダメじゅないの」
「住所が変わったら、連絡するでしょ」
「それと、いっしょヨ」

と、子供に言い聞かせるように、やんわりとクレームをつけている。
 妹の反論に対しては、
「現在、使われていません、と、電電公社の女の人が言ってたよ」
「まったく知らない人が、出てきたわ」

と、聞く耳を持たない。
 番号を間違えたとは、露ほども思っていないし、認めない。

 電話がかかってきた時、出てくれても、だれからなのか、覚えていないため、返事ができず、困っていた。
 最近は、かかってくる電話を取らなくなった。
 電話が鳴ったことは、覚えているようだが、確かではない。
 1日位のズレは、ご愛きょうである。

 帰って、しばらくすると、
「電話があったよ」
「どこから?」
「わからない」
「出たの?」
「出なかった」
「いつ?」
「☆時ごろ」
「☆時って、いまだよ
「いまの前の☆時ごろ」
  ・・・・・・・・・・。

 この話題で、ちょっとの間の会話が楽しめる。

 電話を取らなくなったため、助かっている。
 留守電に、入るから。
 
 

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老人会に、若い係りの人がいる

 昨夜も、デイサービスから帰ってくると、元気そのもの。
 クツを脱ぎすて、自室に入り、寝ようとする。
 しぶしぶ出てくる。
 そして、
「今日のお昼は、牛丼がでた。おっきかった」
「おやつに、プリンがでた。おいしかった」
「みんなで、ボール投げをやった。楽しかった」
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・。 

 いつもの、パターンである。

 テレビを見ていると、突然、
「ここの老人会の人は、親切だ」
「お昼のご飯も、ご馳走してくれる」
「いつも、おやつを出してくれる」
「風呂にも、入れてくれる」
「本当に、心の優しい人ばかりだよ」

と、いたく感心している。
 
 "老人会の集まり"と、いつわって連れて行っているので、介護センターを老人会と思うのは、止むを得ない。
「老人会の人が、ご馳走してくれるの?」
「いや、係りの若い男の人が、ご馳走くれる」
 老人会に、身の回りの世話をしてくれる人がいることを、疑問に思わないのも、無理はないか。
 田舎の老人会でも、若い係りの人など、いなかったのだが。
「おやつは、みんなが、持ってくるの?」
「いや、係りの若い女の人が、配ってくれる」
「友だちは、できた?」
「若い係りの人たちが、お友だち」
 まったく疑っている様子はない。
 天真爛漫である。
「老人会に集まってくる人の中に、友だちは、できた?」
「いつも同じ人たちだけじゃないし、変な人もいるから、話さない」
 現実と空想の世界が、相半ば、のようだ。
 そして、様子は、だいたい想像できる。

 おや、と思った。
 以前から、"老人会の集まり"の人の名前は、出たことがない。
 前に、洗濯物の中から、氏名の書いたバッチが、出てきたことがあるのに。
 おそらく、全員が付けていると思われるのだが、名前は出てこない。

 それ以外は、少なくとも、話しの筋は通っているし、まともだ。
 介護センターに行くのは、係りの方々に会いたいからなのである。
 爪を切ってもらったり、風呂で髪を洗ってもらったり、トイレにも付き添ってもらっているようだ。
 仕事とはいえ、職員の方々には、感謝、感謝、である。

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テレビから、空想へ

 
 最近は、テレビのすべての番組に、関心が薄くなったようだ。

 大好きだったドラマを、ひとりでは見なくなってから、すでに久しい。
 ストーリーが、覚えられなくなったから、だと思う。
 見なくなるチョット前から、俳優ごとに、自分で勝手な役割も、決めるようになった。
 その配役と違っていると、
「○○さんが、こんな役をやることになったんだ」
「売れなくなると、つらいね」
「かわいそう」

と、なる。

 暴力的な場面は、もともと、目をそらし、見ないようにしていた。
 いっしょに見ていて、今でも、それは変わらない。
 
 数か月前ごろからは、毎日かかさず見ていたお昼のワイドショーも、見ていない。
 なぜかと尋ねると、お気に入りだった司会者○○について、
「○○が、いじわるだから」
という。
 他の番組に、彼が出てくると、その番組も見ない。
 いやな発言でも、あったのだろうか。
 なにがしかの記憶は、いまでも抜群で、健在である。

 あれほど好きだった相撲も、前場所から、見なくなった。
 ごひいきの高見盛の取り組み結果を、両手で胸をたたきながら、毎日のように、得意げに報告していたのだが。
 いまは、帰ってくると、いつも、寝ているようになった。
 なぜ見なかったのかを聞くと、
「相撲は、昨日で、終わったヨ」
「今日は、やっていなかった」
「ちょっと前に、終わった」

などと、秋場所が始まったばかりにもかかわらず、それらしく、言いわけをする。

 いっしょにいる時は、一応、画面を向いている。
 ときおり、楽しんで見ている気配がしない時が、見受けられるようになった。

 ドライブの時の、風景を見ているような目だ。
 何を考えているのだろうか。
 幼きころの、楽しい思い出と重ねあわせているのか。
 空想の世界で、もっともっと、楽しい夢を、眺めているのか。

 その時、無色透明な、やすらかな瞳をしている。
 
 

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おいしくない、ジュース

 帰宅すると、家の中は、夜陰に包まれていた。
 いつものことである。

「帰ったよ」
と、声をかけると、
「おかえり」
と、すぐに反応があった。
 今日は、眠りが浅いようだ。
 日中の大半を、夢の中で、だれかと、遊んでいたのか。
 テーブルの前にすわり、夕食の準備ができるのを、じっと待っている。
 いつもより、お腹がすいているようだ。
 そういえば、出しておいた、お菓子の量が、少なかったかも知れない。
 
 冷蔵庫を開けると、なぜか、食用油のペットボトルが入っている。
 それも、ほぼ、カラである
 たしか、新しく封を切ったばかりのはずだ。
 数カ月前にも、同じようなことがあった。
 しかし、食事を作れなくなって、数年たつ。
 料理をするはずはない。

 遅めの食事をしていると、
「最近のジュースは、おいしくない」
と、ぼそっと、つぶやく。
 もしやと思い、
「このジュースのこと?」
 カラのペットボトルを持って来て、見せる。
「そう。ベタベタして、おいしくなかった」

 またもや、奇奇怪怪のできごとが起きた。。
 だが、お腹をこわした様子は、まったく見えない。
 昔の人は、"強く、じょうぶ"に、できているようだ。

 その時を最後に、食用油だけでなく、しょうゆ、ソース、その他もろもろのペットボトルに入ったものは、目のとどく所から、姿を消した。
 
 

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青い服の人

 朝の、ゴミ出しから戻ると、
「どなたですか」
と聞いてくる。

 何のことか分からず、黙っていると、
「息子は、どこにいったのか、ご存知ですか」
と、引き続き、聞いてくる。
 本当に、知らない人と、話している様子だ。
「今日は、休みで、いるはずなのに」
「買い物にでも、でかけたのか」

と、ぶつぶつ、一人つぶやいている。
 予想もしていなかったことが、起きた。
 いよいよ、自分の息子も、わからなくなる時が、出始めたようだ。

 仕方なく、自分の部屋に入る。
 しばらくして、居間に戻ると
「おかえり」
「おそかったね」

という。
 聞いても、せんないことと諦め、質問しなかった。

 ほどなくすると、
「今日、青い服の男の人が、いたよ」
「しばらく、そこに立っていた」
「そして、出ていった」

と、話しだす。

「名前は、なんていう人?」
「知らない人」
「どんな人?」
「知らない男の人」
「どんな用事で、来たの?」
「聞いても、言わなかった」
「歳は、どのくらいだった?」
「おまえと、同じくらい」
「背の高さは、どのくらい?」
「おまえと、同じくらい」
 息子であるとの認識は、まったく、なかったようである。

 "青い服の人"とは、何なんだろうと、思いめぐらす。
 答えが、見つかるはずもない。
 曖昧模糊の世界に、迷い込んだのか。
 それとも、深くしまい込んでいた記憶が、よみがえってきたのだろうか。
 もしそうなら、その人との楽しい思い出だったことを願って、考えるのをやめた。
 
 

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車も、お年寄りに、やさしくなった

 20数年来、付き合っていたメーカーから、この春、トヨタの車に乗り換えた。
 代わった担当の女子の態度に、不満が消えなかったからである。
 むろん、理由は伝えていない。

 やはりトップ企業、関連会社への指導も行き届いているのか、対応など気持ちが良い。
 6か月の無料点検のため、朝いちばん、営業所に乗り入れた。
 営業開始したばかりの時刻のせいか、すいている。
 待っている間に、店内をぶらぶらしていると、福祉車両なるものの文字が、目に入った。
 パンフレットを、手に取る。
 実に、良くできている。
 まだ母の歩行に問題はないため、すぐに必要というわけではないが、次の車種は、これにしようと決めた。
 業務用は、前から知っていたが、一般車両に、これほどラインアップされているとは、夢にも思わなかった。
 まだまだ、介護については、何も知らないビギナーなのである。

 亡き父が、ずいぶん昔に、脳梗塞で倒れたことがあった。
 持ち直したものの、後遺症が残り、歩くのが不自由になった。
 その時にも、介護者向けの車を探したが、当時の一般車には、ラインアップされていなかった。
 改造は、むずかしいとも、言われた。
 前に乗っていた車のメーカーのせいではなく、利害得失、時代が早過ぎただけの理由だったと思う。

 あれほど、がんこだった父も、口にこそ出さなかったが、晩年は、ドライブだけを心待ちしていたようである。
 当時も、倒れてからは、毎月のように帰省していた。
 帰る予定の1週間前ごろから、なじみの写真屋からフイルムを取りよせ、ビデオ・カメラの充電など、余念がなかったと聞いている。
 乗り降りに不自由な一般車?で、あちこちに出かけたものだ。
 
 しかし、北は、下北半島まで。
 ついに、津軽海峡を渡ることはできず、行きたがっていたであろう北海道には、連れて行けなかった。
 
 当時、母はどうだったであろうか、ふと思いだしてみても、いまの状態を予感させる兆候などは、みじんも、なかった。

 いまは、亡き父のことを語ることもない。 

  〈ご参考〉 ☆トヨタの福祉車両
 
 

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【休題】考えさせられる本

 
 考えさせられる本を見つけた。

 ☆介護の「質」に挑む人びと(ISBN 978-4-8058-2845-8)
   著者 加藤 仁
   発行 中央法規出版

 まだ何もわかっていない介護のビギナーであるが、はじめの"おむつはずし"にひかれ、一気に読んでしまった。
 "新しい扉をひらいた二十八人"のサブタイトルの通り、いろいろなチャレンジの成果を紹介していて、かつ読みやすい。

 ユニットケア、認知症ケア、地域密着、小規模多機能・・はどのようにして生まれたのか? 介護の「質」にこだわり、新たなケアを模索し続けてきた介護現場の実践者たちにフォーカスをあてた介護ルポルタージュ。「おはよう21」連載「介護世界のパイオニアたち」の単行本化。(中央法規出版ホームページより)

 そもそも、介護の専門家にヒントを与える本のようだが、介護に少しでも興味のある人は、読んでいて面白い思う。
 ただ、介護専門職向けの雑誌に連載されていたものを単行本にしたとの事、成功事例を総花的に表現されている点は、否めない。

 新しい介護の世界は黎明期なのか、紹介されている手法が多岐にわたっていて、興味深い。
 多くの人々が、介護の"質"の向上に努力していることを知って安心すると同時に、ふと不安も感じた。
 紹介されていない大半の施設は、大丈夫なのか、と。

 現場で介護の任に当たっている方々の情熱には、感動すら受けている。
 しかし、マスコミを騒がしているニュースなどを見ると、当たり前のことが当たり前でない現実、も多いようで、さみしくなってくる。
 運営をする側からすると、介護の精神よりも、ビジネスを優先せざるを得ない状況が、あるのかも知れない。
 いまの環境では、現場での人々の情熱だけでは解決できない、何らかの大きな落とし穴がありそうである。
 ブログ"幻のデイサービス"に書いた心ある青年が退職し、介護とは無関係の職に就くそうだ。
 理由はわからないが、留まるだけの魅力を失ったのだろうか。

 これからは、今までに経験をしたこともなく、世界を見渡しても見つからないほどの、高齢化が進む日本である。
 単なる個々の施設の問題としてではなく、日本全体としての、あるべき介護環境を、真剣に考える時ではないか。

 団塊の世代には、ぜひ、読んでほしい本である。
 
 

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思い出の、砂 集め

 母は、飛行機に乗ったことがなかった。
 数年前、認知症も見えかくれしてきたため、今のうちに、思い立ったが大安吉日と、誕生日を記念して、沖縄に連れて行った。
 一生に一度は飛行機に乗せたい、との、亡き父の心残りもある。
 北海道に行きたたかったが、誕生日の2月を考えると、やはり、沖縄となった。
 奮発して、3泊4日、すべてタクシーをチャーターして、名所と言われる所は、すべて観てまわった。

 後日、撮ってきたビデオを見るたびに、
「浜辺は、美しかった」
「真っ白な砂を、取ってくれば良かった」

と、砂のことばかり言う。
 宿泊したホテルには、一面に広がるプライベート・ビーチがあり、部屋から直接行けた。
 初めての飛行機よりも、いろいろ回った著名な観光地よりも、おいしかった沖縄料理よりも、何よりも白い砂浜の方が、印象的だったようである。

 それ以来、出かけた海岸の砂を、ひとにぎり集めることにした。

 いつもの九十九里浜に、行ってきた。
 砂集めは、その日に、数か所の海岸に行っても、1番気に入った1か所しか、集めないことに決めている。
 思い出のため1か所に絞っても、おそらく記憶していないと、知っての上だ。
 だから、いつもの九十九里浜でも、標本にない場所が、まだ数か所、残っている。

 途中のたんぼでは、稲刈りの真っ最中である。
 途中の店先には、"新米あります"の表示が、あちこちにある。
 さすが、早場米の産地である。
 海の見える大好きな九十九里浜だが、夏休みの混雑を嫌って避けていたため、、久しぶりの訪問である。

 浜辺の出店で、早めの昼食をとった。
 8月末が金曜日だったため、暦の関係上、今日が夏休みの最後とのこと。
 しかし、気温が低いためなのか、宿題に追われてるのか、閑散としている。
 一部の海の家では、解体も、はじまっている。

 ここの奥さんと、おぼしき、中年の女性が、話しかけてくる。
「今日は、いい天気ですね」
「ここの浜辺は、きれいだわね」
「どちらから、来られたの」
「このお茶は、おいしいね」
「おばあちゃんは、いくつに、なられたの」
「孫は、県庁に勤めているのよ」
「お孫さんは、何人おられるの」
「去年、結婚したのよ」
 そうなんだ、という顔をして、離れていく。
 これも、ちょっと興奮した時に見せる、いつもの会話パターンである。

 食事は気に入ったようなので、今日の砂は、ここに決めた。
 水辺の近くの、気に入った場所から、喜々として、ケースに入れている。
 まるで、子供のようだ。

 今まで集めた砂は、海岸以外もあるので、ずいぶんたまった。
 テレビの隣りの棚に飾ってあるが、見ようとしたことはない。
 いずれは来るであろう、その時、とわの敷地に、まいてあげるつもりである。
 
 
 

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いつもの、無料パスで

 電車やバスなどの公共の"あし"で出かけたのは、いつが最後だったろうか。
 いま住んでいるところは、75歳以上の人に、交通機関の無料パスがもらえる。
 正確には、年間1千円だけを支払うが。
 田舎から呼び寄せてから最近まで、更新の手続きだけは、継続していたが、いまは、していない。
 実際に乗車したのは、はじめの1年ほどである。
 あとは、本人が、"タダで乗れる"と喜んでいたから、生きているあかしとして、無料パスを渡していた。
 無料で電車やバスに乗れるのが、うれしいらしく、改札口や、バスの運転手に、かならず、
「ありがとうございます」
「お世話をかけました」

と、お礼を言っていた。
 しかし、都会での混雑ぶりには、なじまなかったようである。

 休みの日には、運動のため、近くのスーパーへ買い物に、連れ出していた。
 最初のころは、あれこれ眺め、季節感を感じていて、うれしがっている様子が、ヒシヒシと伝わって来ていた。
 スーパーの入口に置いてある長いイスに座って、似たような年配の、見知らぬご婦人とのお話しも、楽しみの一つだった。
 結構、楽しみにしていたが、これも、最近は、行きたがらなく、なってしまった。
 こちらは、足腰が弱ったためだと、本人はいう。
 世間一般には徘徊という"夜のお散歩"の時は、そうとう遠くの場所で発見されるのに。

 現在は、自家用車の無料パス?だけ使用している。
 それも、"顔パス"で。
 
 さあ、今日は日曜日、ドライブの日
 
朝から、準備万端、待っている。
 いつもの"無料パス"を使って、目的の定まっていないぶらりドライブに出かけよう。
 海水浴の混雑を避けたため、夏休みの間、行っていない海の見える大好きな九十九里浜に、ハンドルを向けた。
 
 

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