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2008年4月

ツツジは、ツツジ(2)

 
 田舎には、どの家にもはある。
 わが家にも、小さいけれど、こじんまりとした庭がある。
 その庭には、すでに住みにくくなっているほど古い建物が、セットになっている。
 "昔懐かし"の場面に出てくる"住まい"そのものである。

 縁側から眺めて、左側に門があって、玄関に通じている。
 ちょっとした目隠しのように、南天が柵のように植わっている。
 正面の一番奥、すなわち道路を隔てた塀の前に、松の木がある。
 かつては3本あったが、今は1本しかない。
 道路の拡張のために、松のギリギリまで、塀を内側に移動した。
 根元が固められ、耐えられなくなったのか、2本は枯れてしまった。
 その隣には、寒ツバキがある。

 田舎の真冬には、すべてが、銀一色におおわれる。
 だが、この空間だけは、息吹が聞こえる。
 南天の緑の葉の上部には、真っ赤な実の房が、積った雪の中から顔を出す。
 松も、黒々とした青葉を、絶やすことはない。
 しんしんと積もった雪も、その重みで下がり過ぎた枝から、時々、転がり落ちる。
 樹木なのだが、"動いて"、雪を振り払ったように感じられる。
 存在感を、示しているようだ。
 冬季のヒーローは、やはり"ツバキ"である。
 青々とした葉に彩られ、真っ赤に咲き誇る花は、色が途絶えた世界でも、息吹は絶えていないことを伝える。
 花びらがポタリと落ちることから、「首が落ちる」といって忌み嫌っていた祖父にも、切り取られることはなかった。
 可憐に咲く南天ですら、露払いの役に満足するほど、見事だからだ。

 縁側に近い方の、南天の終りのところに梅の木が1本、対照的な右の位置にもう1本、植えてあった。
 大きな実をつける品種で、その年の最初の収穫物を、プレゼントしてくれる。
 玄関口の梅は、子どものころの大型台風で折れ、老樹であることも加わって、再生できずに枯れた。
 残った1本の梅の木は、今でも十分過ぎるほど実をつける。
 南天の庭側に、モミジがある。
 枝ぶりも良く、立ち姿もなかなかのもので、お気に入りの木である。
 陽が射しこんだ時の透明に透きとおる新緑の葉は、あたかも宝石が輝いたように見える。

 秋になると、様変わりする。
 真っ赤に紅葉し、同じ太陽の光を受けるのだが、燃えさかっているように変貌する。
 この葉が紅の色を失うと、初雪が舞う。
 庭の右端の中ほどに、ナシの木がある。
 食べるためのものではないが、子どものころ、1個を残してすべてを取り去っておいたら、結構おいしかった。
 自家栽培のための畑との境界を、守っているような姿をしている。

 これで、大体の脇役が登場した。
 マルメロの木、山椒の木などまだまだあるが、端役である。
 でも、この庭の主役は、"ツツジ"なのだ。         (続く)
 
 

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ツツジは、ツツジ

 
 沿道のツツジの花が、咲き始めた。
 最近は、歩道と車道の境や中央分離帯に、よく見かける。
 排気ガスに強い花だからなのか、手が掛からない木なのか、理由は知らない。
 季節の訪れは、止まることなく、着実に進んでいるようである。
 濃いピンクの花が、春の盛りを告げる。
 まだ、白い花の方は、咲いていないようだ。

 いまだに、ツツジサツキの違いは、分からない。
 サツキは、皐月と呼ばれる5月のころに、いっせいに咲くからその名が付いたと、よく言われる。
 だから、ツツジは4月、サツキは5月だそうである。
 だが、田舎では、その季節を推し量るのは難しい。
 まず、4月には、ツツジは咲かない。
 雪国である田舎には、通用しないのである。

 ツツジが咲いてから、約1カ月遅れて咲くのがサツキ。
 でも、雪国での花は、いっせいに咲く。
 もっと寒い所では、梅も桃も桜も、いっせいに咲くと聞く。
 春に咲く花をツツジ、初夏に咲くのがサツキ、というのも怪しい。

 ツツジの枝は上の方に向かって伸びるのに対し、サツキは横に伸びるのだそうだ。
 ある人からは、葉っぱが違うとも聞いた。
 ツツジの葉は大きく軟らかいが、サツキの葉は、それより小さいくて硬いという人もいる。
 ツツジは開花してから後に葉が伸びるのに対して、サツキ葉が伸びてから花をつけるとも聞く。
 これらも、両方を並べて比較しないと、素人には難しそうである。

 小枝が多いのがサツキ。
 葉や花が比較的大きいのがサツキ
 なお分からない。

 いろいろ教えられても、"感性"として頭の中には入らない。
 一度、事典で調べたことがあった。
 "ツツジ目ツツジ科ツツジ属"となっていた。
 詳しい違いが記載はされていて、別に専門的で理解できなかったのでもなかったが、ページを閉じた。
 ""が、違いを認めるのを、拒否しているようである。
 シャクナゲも、ツツジの仲間だと聞くにおよび、思考を止めている。
 今では、ツツジが全体を示していて、サツキはツツジに含まれると勝手に解釈して、納得している。
 すべてが、ツツジなのである。

 古来より田舎では、春に愛でる単なる花の一つだけでは、なかったような気がする。
 多くの花をつけて咲く年は豊作になるとか、農作業の指標として利用していたように記憶している。
 痛風リュウマチ薬効があるとして、レンゲツツジを薬としても重宝していた。
 葉や花を十分に煮出しし、できた汁を患部に塗布するのである。
 猛毒だから、絶対に飲んではいけない、と教えられた。
 あれほど効用があると信じられていたものが、今は長老ですら使っていない。

 余談ではあるが、消えてしまったもののとして、昭和30年前後には食べ合わせも固く信じられていた。
  ・ウナギに、梅干し
  ・スイカに、天ぷら
  ・カニとかき氷、カニと柿
  ・マグロに、水         ・・・・・
 どの家庭にも、してはいけない食べ合わせを絵で示したポスターが、台所などに貼られていたものである。
 熟知していて、常に家族の健康を守っていた母も、ずいぶん前から口にしなくなっている。

 5月初旬では、まだツツジが咲く時期ではないので、1年ぶりに再開できるのは、6月の診療帰省の時であろう。
 四季折々の楽しみの一つでもある。
 
 

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新学期が始まる

 
 土曜日のデイサービスから帰宅する際に、出迎えをする待ち合わせ場所が、変更になった。
 大幅な編成替えのため、順々に送り届けるルートが、大きく変わるのだそうだ。
 今まで送ってもらっていた車は、大きめのワンボックスカーのようなものであったが、これからはマイクロバスでのグループになる。
 先週、説明を受けた。
 待ち合わせ時刻も、30分遅くなる。
 こちらは、大変ありがたい。

 今までの場所は、エレベーターから出てすぐの、北側の道路わきであった。
 一番近い公道である。
 道幅が狭く、マイクロバスが停車するには、ちよっとスペースが狭いようである。
 新しい待ち合わせ場所は、同じ一方通行の道路ではあるが、両面の交通をしても不思議でないほどの広さがある。
 多少、駐車していても、交通上なんら問題のない広さである。
 この点も、考慮されたのだろう。
 ただ、ちょっと離れているのだ。
 建物の西側に隣接してはいるが、60メートルほどの距離がある。
 住んでいる建物が東西に長く、エレベーターが建物の中央にあるからである。

 迎えに出る。
 マイクロバスが、定刻通りにやってくる。
 プロなのだろうが、いつも"感心"である。
 同乗している顔見知りの職員がサポートして、引き渡してくれる。

 この2、3日、風が強く吹き続いている。
 あいにく、変更になって始めての日に、ぶつかった。
 建物と建物の間に、十分な公園を設けてあるが、それでも"ビル風"はキツイ。
 強風がまともに当たり、足もとがあやしくなる。
 右に左に方向を変えて、頼りなく歩いている。
 でも、転びそうな雰囲気ではない。
 苦労しているというよりは、楽しんでいる。
 "子ども"が、風と戯れているようだ。
 多少と言うより、十分すぎるほど年をとってはいるが、背が丸まってきたせいで、背丈は子どもに近い。
 わずかな一時の遊びも、ほどなく終わり、エレベーターに乗り込む。

「今日の車に乗っていた人は、知らない人だらけ」
 着替えながら、話し始める。

 先週あたりから、帰宅すると、
「今日、新しい人が入ってきた」
「変な人だった」

と、繰り返していた。
 次の日も、
「今日も、大勢、新しい人が来ていた」
「変な人ばかりで、ご飯を食べると寝ている人もいた」
「男の人で、こわい人もいた」

など、毎日のように、似たような話しをしていた。

 4月になって、新しいメンバーが、ずいぶん入って来たのだろう。
 こちらの"老人会"でも、"新学期"を迎えたようである。
 
 

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ちっちゃな事件

 
 メンタルケアの病院に向かう。
 予約時刻の少し前に、受け付けをする。
 いつもの席で順番を待つ。
 "予約"なのに、20分ほど過ぎても呼ばれない。
 前回も、30分ほど待たされた。
 診察室のドアが開き、看護婦の一人が出てきて、通りすがりに、
「お待たせしてすみません。次ですから」
と、声をかけて通り過ぎる。
 やはり今回も、30分待たされた。

 いつもの変わらぬ問診がはじまる。
 特に変化もないため、10分ほどで診察は終わる。
 いままで、静かにうなだれていた母は、一瞬で元気を取り戻す。
「ありがとうございました」
「さようなら」

 元々、病院嫌いではあるが、この病院は特に嫌いなようである。
 さっさと、診療室を出てしまう。
 そして、ちょっとした"事件"が起きる。

 出るとすぐ見知らぬ人に、握手をはじめたのである。
「ありがとうございました」
と声をかけながら。
 握手をされた方は、"ビックリ"であろう。
 見知らぬ"おバアさん"から、突然、握手される。
 この病院は認知症を扱っていると知っていても、付添いの人たちである。
 自分に"災害"が及ぶとは、思ってもいまい。
 うれしそうなのは本人だけで、相手は戸惑っている。
 診療の支払いをする間も、相変わらず喜々としている。

 薬を受け取りに、隣にある薬局に向かう。
 待っている間に、それらしい理由が分かった。
 どうも、入院をさせられると思っていたようだ。
 大丈夫だと思った瞬間、憂鬱な気分から、一気に快活な気分に変わったのだ。 
 
 それ以降、用事を済ますために知り合いの人たちと会うが、会う人、会う人、すべての人に握手を求める。
 男性と会えば、
「久しぶりだねー」
「奥さん、お元気?」

と、握手を求める。
 女性であれば、
「久しぶりだねー」
「旦那さん、お元気?」

で握手する。
 相手は予想もしないできごとに、唖然としている。
 なすがまま、握手に応じている。

 別れるとすぐに、"本当の事件"が起こる。
「あの人、誰だっけ?」
 
 

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帰省ドライブでの出会い2

 
 霧もはれ、美しい太陽ともお別れである。
 いつもの、注視できないほど光り輝く太陽に戻っている。
 青天である。

 今回の帰省には、もう一つの楽しみがある。
 いま住んでいる所のサクラは、終わってしまった。
 今年の田舎は、例年より早めの再来週あたりからのようだ。
 どこかで、満開の"桜たち"に出会えるはずである。
 
 葉桜が続き、満開に咲き誇っている"桜たち"には、まだ出会えていない。
 花びらが見えても、花ふぶきが舞っている。
 平野を抜け最初の峠に至ると、急にツボミになった。
 何ごとも、"会えない"と、無性に"会いたくなる"ものである。
 順調というより、早過ぎるほど、時々刻々、田舎に近ずいている。
 時間の余裕は、たっぷりある。 
 高速道路を、おりることにした。
 
 今まで出番の少なかったカーナビが、満を持したように、誘導を始める。
 いつもより、説明が多いように聞こえるのは、気のせいか。
 やがて、助手席で反応が起こる。
「1キロ先を、右方向です」
「みぎ、みぎ」
と右手をかかげ、その方向を指し示す動きを、繰り返しはじめた。
「500メートル先を、右方向です」
「みぎ、みぎ、・・・・」
「300メートル先を、右方向です」
「みぎ、みぎ、・・・・」
「まもなく、右方向です」
「みぎ、みぎ、・・・・」

「次の交差点には、右折専用レーンがあります」
 手をかかげて、
「右折、右折、・・・・」

「1キロ先を、左折します」
「こんどは、左折、左折」
「500メートル先を、左折です」
「左折、左折、・・・・」
「300メートル先を、左折です」
「左折、左折、・・・・」
「まもなく、左折します」
「左折、左折、・・・・」
と、手をかかげている。

 車中での、新しい遊びができたようである。
 ドライブの楽しみも、また一つ増えた。

 第一の峠を下っても、時おり、サクラには出会えるが、期待する風景ではない。
 その後も、早咲きの"目立ちがリ屋"のサクラはたくさんあったが、いっせいに咲き誇っている姿を見ることは出来ない。

 結局、満開の"桜たち"には、出会えなかった。
 帰路は一般道を走り、どうしても"満開の桜たち"を探そう。
 
 

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帰省ドライブでの出会い

 
 1か月は、あっという間だった。
 診療のための"帰省の日"が、やってきた。

 母親譲りの性格なのか、何かのイベントがあると、ずいぶん前から気になる。
 今日も、早めに目が覚めてしまった。
 待っていてもしょうがない。
 早すぎるけれど、出発することにした。
 かといって、1日前の帰省ではなく当日なので、のんびりしたドライブを楽しむこともできない。
 変化がなく、面白みに欠ける高速道路に入る。

 会話もなく、"静かな空間"を乗せて、田舎に向かっている。
 小1時間を過ぎた頃、がかかってきた。
 このあたりは霧の名所で、風のない早朝は、いつもである。
 しばらくの区間、このような状態が続く。
 薄モヤだったり、先が見えなかったりが、交互に訪れる。
 走行している車の数が、いつもより少ない。
 前の車のテールランプを頼りに走れるので、多い時は意外と心配ないのだが、今日は注意が必要である。

「今日は、満月だったんだ」
「きねいだねー」
「大きいねー」

と言いだした。
 こちらに語りかけている口調ではなく、一人で納得しているだけのようである。
 この前の日曜日が新月だったから、上弦の月くらいなものだろう。
 満月になるには、まだ1週間ほどあるはずだ。

 答えは、すぐに判明した。
 東の方角に、霧におおわれた太陽が、真ん丸くオレンジ色に輝いている。
 間もなく、車の走る向きによって前方に現れたり、ちょっと東の方角に控えめにしたりと、視界に登場してきた。
 久しぶりに見た、美しい"おてんとうさま"である。
 夕焼けとは違う、荘厳さだ。
 まわりの景色は見えず、霧の中に浮かんでいる。
 手が届きそうにも、感じられる。

「今日のお月様は、本当に赤いねー」
「きれいだねー」
「大きいねー」

 向っている方向に出現するたびに、繰り返し続いている。
 少し明るすぎる"おぼろ月"に見えなくもない。
 まだ、飽きてはいないようだ。
 その位、美しいのも事実である。

 こちらに問われたわけではなさそうなので、"お月様ではない"と答えることもせず、しばらく美しさを満喫した。
 
 

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一輪のチューリップが満開

 
 殺風景なので、テレビ近くの棚に、花を飾っている。
 高さ30センチほどの、小さな鉢植えである。
 その隣に、見なれないものを見つけた。
 いつ置いたのか、気付かなかった。
 昨夜にでも、置いたのだろうか。
 白い不透明なレジ袋に入ったままであるが、そこから緑の色をした茎らしき上に、赤いものがついている。
 折り紙で作られたチューリップのようである。
 デイサービスで、作ってきたのだ。

 鉢植えのように"立つよう"に、作られている。
 だから、鉢植えの隣に置いたのか。
 よく眺めると、子どもが作ったものでないことが、何となく感じられる。
 袋に入っているので、葉は見えない。
 それが逆に、リアル感を醸し出している。
 幼稚ではあるが、素朴で気品があるようにも見える。
 決して、欲目で見ているのではない。
 不思議なものである。

 チューリップといえばオランダ、オランダといえばチューリップと、子どもの頃は思っていた。
 チューリップが咲き誇る背景には、やはり風車が似合う。
 今でも、売られている球根の大半は、オランダからの輸入と聞いている。
 田舎は、チューリップでいうところの、日本でのオランダといわれている県が隣にある。
 そのためか、チューリップは身近な花でもあった。

 誰から聞いたのかは忘れてしまったが、花にまつわる話しがある。
 昔々、あるところに、美しい娘が住んでいた。
 ある日、3人の騎士から、同時に求婚を受けた。
 一人の騎士は多くの宝物を差し出し、次の騎士は立派な剣を、最後の騎士は王冠を贈った。
 心優しい娘は、その中の一人だけを選べることなどできず、悩んだ末、精霊に頼んで花に姿を変えた。
 その花は王冠の形で、剣のような葉を持ち、球根はオランダの財力を生むようになった。
 いつしか人々は、娘の名であるチューリップと呼ぶようになった。
 この話しは、今でも好きである。

 良く見ると、折り紙のチューリップの方が生き生きしている。
 隣にある植木鉢の花は、盛りが過ぎてしまったのか、枯れることのない花に意気消沈したようだ。
 心優しい娘の化身の方に、軍配が上がった。

 起きるように声をかけ、朝食の準備に入る。
 3度の声掛けで、反応があった。
 また新たな一日が、始まった。
 
 

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週7回目の"老人会"2

 
 しばらく、聞いていた。
 時折り、分かる言葉に出会うが、意味不明の時の方が多い。
 声をかけようと思ったが、やめた。
 せっかくの"仲間"たちと、楽しく語りあっている。
 中に割って入って、おしゃべりの邪魔をすることもあるまい。

 もう一つの、理由もある。
 幼い頃に教えられた事を、思い出したからである。
 "決して、寝言に質問をしたり、答えてはならない"、と。
  ・返事をすると目覚めることが出来ず、そのまま死んでしまう。
  ・抜け出ている魂が、戻れなくなってしまう。
   ・魂が抜かれ、頭がおかしくなってしまう。
  ・寝言と会話をすると、話しを打ち切った方の人が死ぬ。
  ・寝言は死人の世界の言葉であるから、あの世から呼ばれる。

 そのようなことだったと、記憶している。

 今は、迷信だという。
 心から信じていたわけではなかったが、禁忌であった。
 好奇心恐怖の二つを併せ持ち、幼心を支配していた呪文のようなものだった。

 今日の状態は、夢を見ているのか、幻の中で遊んでいるのか、どうなのか疑問がわいた。
 いわゆる、"寝ている"のではいない。
 ただ、空想の世界にいるだけだ。
 ボーと、考えをめぐらしている時に、声をかけられても、魂を抜かれるとは聞いていない。
 大丈夫なのだろうけれど、現実の世界にいるような気もしない。
 良く分からない。
 別に、結論が必要なわけでもない。
 考えをやめると同時に、声をかけるのも止めた。

 飲み仲間である"ヤブ医者"の話しを、思い出す。
 やはり、話しかけると眠りが浅くなってしまうので、良くないそうだ。
 "レム睡眠行動障害"という病気がある、とも言っていた。
 こちらは、夢と現実が分からなくなってしまい、注意が必要だそうである。
 ただ、「50代の初老期」に発生し、ほとんどが「男性」で、「暴力的な行動」が伴うそうだ。
 大丈夫だ、該当しない。

 別に、心配はいらないようである。
 多少ではあるが、笑ってもいる。
 今夜は、外への"ハイキング"に出かけてしまう心配も、なさそうだ。
 まもなく、夜が明ける。

 "夢の中のお友達"の皆さんに、挨拶もしないで、その場所から離れた。
 
 

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週7回目の"老人会"

 
 物音で、目が覚める。
 大きな音ではないが、何かの音がしている。
 いつものバックグラウンド・ミュージックではない。
 大したことでもなさそうだが、気にすると、ますます気になるものである。
 そーっと、震源地に近づく。

 ふすまが10センチほど開いていて、常夜灯で中が見える。
 ふとんの中で、上半身だけ起き上がっている。
 そして、押し入れに向かって、何やら話している。
 こちらを背にしているので、表情は分からない。
 言葉も、はっきりしていないので、よく聞き取れない。
 時々、断片的に聞こえる言葉で、理解できるシーンがある。

「サクラは、奇麗だった?」
「私は、きのう行ったから、お留守番」

 毎日、デイサービスへ来ている人は、珍しいと聞いている。
 特定の曜日だけしか来所していない人のために、花見は、何回も開催されたのだろう。
 最初の花見に連れて行ってもらったので、翌日は留守番をしていたと言っていた。
 2度目の花見も、3度目の会も、行きたかったのだ。

「歌は、いいわよ」
「あなたが歌って」

 歌は、苦手である。
 みんなと一緒には歌うが、一人では歌っていないようだ。
 マイクを持って、流れる曲に合わせて歌うのは、今までの人生の中で、そんなに経験がないようだ。

「そんなに、うまくないよ」
「でも、休んでいる人の分は、手伝うよ」

 今は何もしなくなったが、元々、手先は器用な方である。
 "老人会"には皆勤なのだから、遅れた人の分や、急に休んだ人の分も手伝っていると言っていた。
 そのことであろう。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 何のことはない。
 会話の内容は、大好きというより、今や唯一の楽しみである"老人会"のことだ。
 交えている手振りも、一心不乱である。
 すでに、"老人会"に参加していて、その中で楽しんでいる。
 顔は見えないけれど、楽しそうな顔をしているに違いない。

 デイサービスは、週6回、通っている。
 今週は、今の真夜中の訪問で、"7回"も"老人会"に出席するのだ。
                            (続く)
 
 
 

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大勢での花見は楽しい2

 
「サクラを作った」
は、まだ解決していない。
 それらしい作品を持って帰ってはいないし、見た記憶もない。

「作っていたサクラは、どうなったの」
「できた」
「どのようなもの」
「サクラだよ」
「サクラの、何を作ったの」
「サクラの花」
「どんな形になったの」
「サクラの花の形になったよ」
「何で、持ってこないの」
「休んでいる人の分も、作った」
と、やはり、らちが明かない。

 "老人会"に向かう車中でも、サクラの話題が中心であるが、作ったであろうサクラの方の話しではない。
 バスで出かけた花見は、大変おもしろかったようで、目に映る"実物のサクラ"について、"解説"を続けている。
 楽しそうである。

 介護センターに着いた。
 やっと疑問が、解決した。

 満開のサクラの木が、玄関の奥に飾ってあった。
 高さ1メートル半くらいで、40センチほどの太い幹に、サクラに模した枝が、数多く"刺さって"いる。
 太い幹は、発砲プラスチックで出来ているようで、樹の色が塗られている。
 30センチほどの棒に、サクラの花を形どったピンクの2枚の紙が、はさむように貼られていて、一輪をなしている。
 1枝に、2つか3つ、咲いている。
 その花のついた枝が、幹が隠れるほど、無数に"刺さって"いるのである。
 まさしく、満開である。
 デイサービスに来ている人、全員で作ったのだろう。

 目立ち過ぎるほど、目を引いている。
 しかし、その満開の桜には、何の興味も示さなかった。
 "これが作っていたサクラだよ"と、説明しようとはしなかった。
 昨日の"遠足"で、生きている花びらの美しさを、知ってしまったからなのか。
 それとも、作ってしまったものには興味がないのか、知る由もない。
 一べつしただけで、今日一日を過ごす"楽しい老人会"の会場に消えた。

 田舎のサクラは、あと3週間くらいだろうか。
 雪国であるから、いっきに咲く
 あたり一面、春爛漫そのものに、満たされる。
 あらゆるものも、いっせいに芽吹く。
 もうすぐである。
 
 
 

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大勢での花見は楽しい

 
 1週間前から、
「今日は、サクラを作ってきた」
といっている。
 毎日のようにいう。

 デイサービスから帰ってくる際に、ぬり絵であったり、折り紙であったり、その日の作品を持ってくる。
 毎日のように持ってくるので、作品は、ずいぶん溜まった。
 ボール投げやボーリングと称している運動をした日には、無いこともあるが、ほとんどの日には、何がしかを持ってくる。
 節句などの大きなテーマに挑戦している時は、作るのに1週間以上かかっている時もある。
 この前は、桃の節句であった。
 みんなの作品であろう、明らかに素人が作ったと思われるひな飾りが、介護センターの玄関に飾ってあった。
 でも、"サクラの木"は、イメージできない。

 毎日のように言うので、
「サクラって、なに?」
「サクラ」
「サクラの何を作ったの?」
「サクラの花」
「どんな花?」
「サクラ」
「どんな形?」
「サクラの花」
「枝の付いたもの」

と聞いても、らちが明かない。
 
 迎えに行くと、介護センターの職員が、
「みんなで、花見に行ってきました」
「楽しまれていました」
という。
 幼稚園で行われている遠足のようなもののようだ。
 いろいろな事で楽しめるように、スケジュールされている。
 さすがは、プロである。

 帰りの遠回りをしながらの帰宅の最中、やたらにサクラの木を見つけては、
「きれいだねー」
「ここは、満開だね」
「ここは、もう散ってしまって、葉桜になったねー」

と、一人対談をしている。
 よっぽど、楽しかったのだろう。
 ちょっと"変わっている人たち"なので、あまり会話をしていない"老人会"の友達とでも、今回は楽しかったようだ。
 ドライブで、車中の中から眺めるだけの花見より、大勢で見る花見に、感動したのだろう。

 すでに散リ始めているが、いつもの道の同じようなサクラの木のことで、チョットの間、話題に困ることはなさそうだ。(続く)
 
 
 

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