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ミョウガの季節を迎えた

 
 一通りのやることを終え、朝食の準備に入る。
 ひとつひとつ、することを促すのだが、その意味が理解できなくなっているようで、着替えもおぼつかなくなった。
 定位置に座ると、こぼれ防止の前掛けは、すぐにかけた。
 その後は、ただ座っているだけである。
 テレビも、点けようとしない。
 静けさだけが、部屋に満ちあふれる。

「テレビを、点けたら?」
 数回の声かけに、無言でコンセントを差し込む。
 声かけにも、返事をしない時が多くなった。
 はじめのころは、返事をするまで、同じ言葉を繰り返すようにしたが、面倒くさくなり、行動に移れば"良し"としている。

 会話のやり取りは、激減している。
「なぜ?」
との理由を求めても理解できず、よって、"考えて答えること"は無理になっている。 
 以心伝心、と勝手に自分を慰めている。
 
 今日の味噌汁の具は、ミョウガだ。
 夏の終わりと、秋の訪れを告げる薬味である。
 独特の香りは、たまらない。
 この季節に現れる名脇役は、ソバや冷や麦などの主役を、見事に引き立てる。
 天ぷらにしても良いし、漬け物も香ばしい。
 味噌汁の具としては、煮過ぎては美味しくない。
 シャキシャキ感を残すのが、ポイントである。

 田舎には、門から入った台所脇の片隅に"植わっている"。
 "植わっている"とは、植えたとの記憶もなければ、水をやったりなどの世話をしたこともないからである。
 この季節になると、採っても採っても、次から次へと芽吹く。
 すごい生命力である。
 子供のころから現在まで、領土を拡大することもなく、かといって縮小する様子もなく、同じ範囲で元気よく生き続けている。
 隣にあったモミの木は、枯れて無くなったのに、山椒とともに、敷地内の日陰にひっそり生き続ける薬味なのである。

 子どもの頃、このような生命力を持っているのに、野原や山には自生していないのが、不思議でならなかった。
 学校の先生にも聞いた記憶はあるが、解答を得た記憶はない。

 父が存命のうちは、食用として用いられたことはなかった。
 季節を迎えると、近所の人たちが採りにやってくるので、それなりの役割は、果たしていた。
 江戸時代には、ミョウガが「冥加」に通じるとして、戦いに向かう際には食したとも話していたので、単に「食べると物忘れがひどくなる」との俗説からではないと信じている。
 すでに、川の向こう岸に行っているので、もはや真意を知ることは無理である。

 父が亡くなってから食してみると、なかなかの味と判明した。
 子どもの頃は、独特の香りが鼻に付き、食べたいとは思わなかったが、歳を重ねたことと相まって、好物の1つになっている。

 これ以上、物忘れが悪くなったりしたら、との危惧も頭の中には浮かんできたが、もういいだろう。
 いやなことも、忘れるのであろうから。

 具を入れる。
 部屋いっぱいに、かすかな秋の香りが漂った。
 
 


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